ynmtのブログ

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無意識に踏み込むということ

 日本選手のメダルラッシュで大注目の平昌オリンピックもいよいよ閉会が近づき、その視線は今度、パラリンピックへ向かおうとしている。

 視線の主は、一般視聴者だったり、スポーツ関係者だったり、アスリートの家族や友人だったりするわけだが、中には当然、メディアもふくまれている。メディアのまなざしは、視聴者のそれを主導し、大勢を方向づける力を備えているため、何をどのように報道すべきか、という姿勢の如何が問われやすい。

 

 さて、そんな中で気になるのが、カーリング女子日本代表についてである。

 

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アンチ・モチベーション宣言 その1

 前回の記事で、「モチベーション格差社会」というのを紹介した。

 そこでは、来たるべき「モチベーション社会」、つまり「やる気こそが人間の条件なのだ」とする社会において、モチベゼロ人間がどうやって生きていくべきか、という生存戦略を、ちょっとだけ考えた。

 

 その後しばらくあれこれ考えていたわけだが、そのような「モチベーションなくてもいいじゃん!!」的な態度も、結構必要なんじゃないかと思うようになってきた。

 そしてそれを「アンチ・モチベーション」と名付けて、連載シリーズとしてこのブログで押し出していこうと思い立ったのだ。目玉記事みたいなのが、一個でもあったほうがいいだろうし......。

 

 というわけで、第一回目となるこの記事では、そもそも「モチベーション社会」とは何か、それに反対するという「アンチ・モチベーション」とはどのようなものになるか、という概論を述べてみたい。

 

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モチベーションの「誤配」 ~「モチベーション格差社会」をかんがえる~

 何気に意識高い系なので、落合陽一とかホリエモンに結構共感したりする。昨日もYouTubeで、1年くらい前の『スマホで朝生』を見ていたところ、お両人が出てなかなか刺激的なことを喋っていた。

 特に脳裏に強く刻まれた言葉が、落合陽一の発した「モチベーション格差」というものである。

 簡単に言えば、AIやらロボットやらが台頭してくるこれからの社会を生きる人間に必要とされるのは、内在的な「モチベーション(やる気)」なのであって、それがある人は「勝ち組」として社会的成功を収める一方、やる気のない人はどんどんスポイルされていく、というお話である。

 単純労働や作業的な色合いの強い仕事はロボットが担うのだから、そこからあぶり出された手持ち無沙汰な人間は、モチベーションを原動力にして新しいなにかを生み出すしかない、というビジョンである。

 

 これ、まったくもってそのとおりだと思うし、現にそのような「格差」の構造はいたるところに見え隠れしているようだ。しきりに「」や「好きなこと」の発見とそのアピールが顕揚されるのも、それらがこのモチベーション格差社会を乗り切る(勝ち組になる)ための道標になると考えられているからだろう。

 

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九鬼周造『「いき」の構造』 岩波文庫

昔から「いき」に対しては、「古い言葉だ」という印象を持ってきた。死語とは言わないまでも、半ば伝統めいた表現だと感じていた。当たり前だが、今でもそうである。
だから、「いきだね」と言われても、あるいは「いき」な芸術に触れても、「まあそんなもんか」、というくらいの感情しか起こってこないというのが正直なところである。
それよりはよっぽど、「カッコいい」とか「ウケる」とか「エロい」という現代風の言葉のほうがしっくりくるに決まっている。

 

さて、そんな「いき」について、真っ向から勝負を仕掛けた書物がある。九鬼周造の『「いき」の構造』である。
テレビとかでも取り上げられることもあるし、けっこう有名な本なので、名前くらいは聞いたことがある、という人も多いのではないか。

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H.ベルクソン/S.フロイト『笑い/不気味なもの』 付:ジリボン『不気味な笑い』(平凡社ライブラリー)

3つの、時代も作者も異なる論考が一冊に収められた本である。
ベルクソン『笑い』フロイト『不気味なもの』、そしてジリボン『不気味な笑い』
前2者は、もはや古典となっており。すでにいくつかの邦訳も出ている。
ということで本書の眼目はやはり、ジリボンという日本では無名と思しきフランス人の書いた『不気味な笑い』にあるだろう。

 

『不気味な笑い』は、タイトルからも想像はつくが、『笑い』と『不気味なもの』を合体したような論考である。
著者であるジリボンはその中で、ベルクソンフロイトの、つまりは笑いと不気味なものとの共通点と相違点について研究している。

 

共通点とはなんだろうか。 ひとことでいえば、ベルクソンフロイトも、結局は同じものについて語っている、ということである。
笑いと不気味なものという、一見相反するかのように思われるテーマにもかかわらず、両者があつかう対象は同じなのだ、とジリボンは言うのだ。

 

共通するはずのこの対象にふれたときの反応は、しかし、ベルクソンフロイトで異なっている。
ベルクソンは笑い、フロイトは不気味だと感じたのである。これがジリボンの語る両者の相違点である。

 

ジリボンは断言する。ベルクソンフロイトは、実は同じものをあつかっていたのだと。
しかしまた彼は問う。では、その反応が、両者の間でまるで真逆だったのはなぜだろうか

『不気味な笑い』は、この断言問いとに貫かれた、短いながら(実際すぐ読めてしまう)明快な論考なのである。

 

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(メモ)(読書関係なし)ゲームサウンド分析のためのフレームワーク(IEZA framework)があるようだ

ふと、「そういえばゲーム音楽の理論ってあるのかしら」と思い適当にググっていたら、それっぽい記事をいくつか発見した。

どうやら「IEZAフレームワーク」というのがあるらしい。整理とメモがてらまとめてみる。

 

日本のゲーム音楽論が出遅れている件について - ゲーム音楽史研究所

Gamasutra - IEZA: A Framework For Game Audio

IEZA Framework - Wikipedia

 

このへん。

日本語での情報はあんまりないっぽいし、向こうでもどのくらい研究が進んでるのかもわからんが。

 

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ロジェ・カイヨワ 『遊びと人間』 (講談社学術文庫)

著者のカイヨワ(1913-1978)はフランスうまれの人物である。

『遊びと人間』は、1958年に書かれた。以来、遊びについて考えるための大きな指針となっているようだ。


本書でカイヨワは、人間の遊びに明快な定義と区分を与えた。

いわく、遊びとは「自由で」「日常から隔離されて」「なにが起こるかわからなくて」なおかつ「何も生み出さない」。そしてそれは、「アゴン=競争」「アレア=偶然

ミミクリ=模倣」「イリンクス=眩暈」の、大きく4種類の区分を持つ。

……しかしそれは、すでにWeb上の色々なところで解説されている。「カイヨワ 遊び」とかのワードでググったら簡単に見つけることができる。だから今さら、ここに書く必要はないとおもわれる。

ということで、今回は、内容をダイレクトに掘り進めるのではなく、本書と、あるいはカイヨワと関係のある「人物」を軸にして書いてみようとおもう。その一人目は、カイヨワの直接の"師匠"とも呼ぶべき先駆的人物、ホイジンガである。

 

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