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千葉雅也・『勉強の哲学 来たるべきバカのために』 (の、音楽的な読み換え)

千葉雅也氏の話題の新著、『勉強の哲学 来たるべきバカのために』。
「勉強」をめぐって、フランス現代思想などに支えられた深遠な考察が巡らされている。
深いながらも水質は透明で、すぐに水底まで見通せる。読むだけならスラスラと読めるのだ。

この読みやすい書物について、素人が下手に内容をまとめるべきではない。実際に本を読んだほうが手っ取り早い。
だから、今回は、ちょっと実験的な、おもしろそうな読みかたを提示してみたいと思う。
発端は、著者である千葉氏自身のこのツイートだ。

 

 


その場のノリ、空気感といった意味で使われていた「コード」という言葉を、そのまま音楽的な「コード=和音」と読み替える。
じつにおもしろそうな提案ではないか。読み換え、パラフレーズというのは言葉遊びの基本でもあるわけだ。
わたしは音楽についてはほとんど素人なのだが、それでも基本的な理論くらいはかじったことがある。だからなんとなくいけそうな気がしている。

「コード」概念が一番幅を利かせているのは、たぶん第二章である。
だからこれから、その第二章の内容を中心に、本書に登場する様々な用語を、音楽用語に置き換えて読んでいく。

とはいえ、哲学も音楽もつまみ食い程度の知識量しかない。だから、あくまでも「口もぐもぐ」的な遊びとして、あるいはより高次の議論へのたたき台として読んでもらえると幸いである。

 

 

* 


まどろっこしいのもアレなので、まずいきなりパラフレーズの結果だけを示す。左側が本書内での用語、右側が音楽用語に変換したものである。


・「言葉」→「音」
・「コード」→「コード=和音」
・「超コード化」→「調性」
・「コード変換」→「転調」
・「脱コード化」→「無調」
・「アイロニー」→「トニック(主音)」
・「(拡張的)ユーモア」→「テンションノート」
・「縮減的ユーモア」→「速弾き」
・「言語なき世界のナンセンス」→「静寂」
・「意味飽和のナンセンス」→「騒音」

 

ざっとこんな感じである。以下、順番に確認していくことにしよう。

・「言葉」→「音」
これはいうまでもないと思う。あらゆるコードの、そもそもの素材になるもの。それは、言語にとっての言葉であり、音楽にとっての音である。

 

・「コード」→「コード=和音」
これも、そのまんまである。わかりやすいように後者を「コード=和音」と書く。

 

・「超コード化」→「調性」
コード=和音が鳴らされているとき、わたしたちは感覚的に、それに合う音と合わない音を判断できる。
これは、会話におけるその場のノリ=コード、に、ある発言が適応しているか否か、という判断がなんとなくできるのと同じである。

ただし、コードは1つではない。会話においても音楽においても、じつに様々なコードが存在している。

コードを並べていったとき、その間に序列が感じられることがある。その序列性を指摘するのが、アイロニーである。
アイロニーによって、より正しい(ように思える)コード、より高次のコードが発見される。高次コードの発見は、何度もつづく。
そうして、その場のノリ=和音から「浮いている」ものを上へ上へとどんどん積み上げていった結果、やがてピラミッド状の階級ができあがる。

これが超コード化の体系であり、音楽でいうところの「調性」だろう。

 

・「コード変換」→「転調」
超コード化がアイロニーの仕事だったのに対し、コード変換とはユーモアの仕事である。

それは、対話=言語においては、あるコードをどんどん別のコードへずらしていくという「ボケ」の回路である。
本文中でも、「ユーモアのおもしろさとは、……、方向=目的喪失の感覚である」と書かれている。
つまり、コードを変換しまくることによって、わたしたちの対話は、当初の目的地からどんどんそれていくのだ。

これはたとえば、Key=Cで始まった曲が、Amに変わり、F#mに変わり、またCに戻り……という転調のおもしろさと似ている。

転調は、あるコード=和音、たとえばGが、同時に複数の調性(G、C、Em、……)に所属しているという多重性を利用している。
コード変換とは、Gというコード=和音を、key=Cにおけるドミナントとしてではなく、key=Gにおけるトニックとして読み替えるような作業と比べられるといえる。

ユーモアは流れの中で、予期せぬ方向にコードを変換する。わたしたちはその違和感を、アイロニーによって「正しい流れ」に引き戻す。
それを音楽的にいえば、ユーモアによってドミナントからトニックへと読み換えられたコードを、アイロニーによって超コード化されたまた別の調性の中へ回収しなおす、ということになるだろう。

 

「脱コード化」→「無調」
超コード化の先にあるとされるのが脱コード化である。

本書では、アイロニーによる脱コード化、すなわち「超コード化による脱コード化」と、
ユーモアによる脱コード化、「コード変換による脱コード化」が対比されている。

しかし行き着く先は同じ脱コード化である。
ここではそれを、古典的な調性を離れた音楽、シェーンベルクの12音技法のような「無調音楽」であると考える。

アイロニー→超コード化は、あらゆるコードの否定から(論理的に?)無調へ辿り着く。
一方、ユーモア→コード変換は、あらゆるコード進行の可能性、どんなコードを鳴らしてもよいという直感から(身体的に?)無調へ辿り着くのだ。

(これは適当におもいついたことだが、このルーツの違いを「クラシック的な無調」と、「ジャズ的な無調」などと分けて考えてみるのはどうなのだろうか。)

 

・「アイロニー」→「トニック(主音)」
ところで、アイロニーとは具体的に何を意味するか。これは、超コード化の、調性の構築への動きといってもよいのだが、
より厳密には、調性というピラミッドの頂点に立つコード=主和音=トニックを導き出す運動だといえるだろう。

 

・「(拡張的)ユーモア」→「テンションノート」
先に、ユーモアは、コード変換を、すなわち転調を促すと書いた。それをユーモアのパラフレーズとしてもよい。
ただし、実際には転調は、アイロニーと組み合わさった運動である。
ユーモア単体はむしろ、部分的にコードから浮いた音を鳴らして緊張=tensioned状態をつくりだす、「テンションコード」であるというべきかもしれない。

 

・「縮減的ユーモア」→「速弾き」
さて、縮減的ユーモアである。本書では、「不必要に細かい話」「自閉的」「享楽的こだわり」などと呼ばれているものである。

縮減的ユーモアが何を縮減するのかというと、それは「意味」なのだという。
ただし、重要なのは、それがただちに「無意味=ナンセンス」になるのではなく、「非意味」的状態にとどまる、という点である。

非意味とは、本文中の説明によれば、「意味の次元と同時に存在する、意味ではない次元」である。「形態のナンセンス」とも呼ばれている。

対話での例としてあげられているのは、「ドラゴンボールについて突然語りだすおたく」である。
その場のノリ=コード的には、なんとなく上っ面の話で合わせておけばよかったものを、あろうことかマニアックな独り語りをはじめてしまうのである。
この状態を、著者は、「口もぐもぐ」などと形容している。そこで求められているのは、もはや意味ではなく、身体的な快楽なのである。

一つのコードにとどまりながら、かつその意味を縮減しつつ内部へと掘り進んでいく。

これを音楽的な表現に変えるとすれば、ある種の「超絶技巧」、一般的にいえばギターやピアノの「速弾き」ということになるだろう。
もはやコード進行などどうでもよい。ただメロディーの流れだけを追い、とにかく速く弾く。
あるいは、ギターコードを覚えたての人が、左手で一つのコードだけを押さえ、右手でめちゃくちゃにピッキングしまくるような状態。これが「縮減的ユーモア」である。

これは一見、ひとりよがりな自慰行為のようにも見える。しかし、著者はこの状態こそが重要で、これによって「器官なき言語」は産み出されるのだ、と説く。

「器官なき言語」とは、「言語それ自体」とも言い換えられるが、ざっくりいえば、あらゆる言葉の生成の場、すべての言葉の産みの親、みたいなものだ。

ところでこの言葉は、あきらかにドゥルーズ&ガタリが好んで使った「器官なき身体」という用語をもとにしている。

「速弾き」「器官なき身体」といった流れで連想されるのが、浅田彰が、「逃走論」に収められた今村仁司との対談の中で用いた、「虎のバター」の比喩である。

そこで浅田は、童話「ちびくろサンボ」の中で、木の周りを走っていた虎が溶けてバターになった、という場面を引用し、「《器官なき身体》というのはそのバターのようなものだ」と述べている。
これは要するに、運動の極点、速度のピークに達した運動が、その自乗としての静止状態のようなものへ至る、ということである。
少年漫画的にいえば、「速すぎて止まって見えるぜ!!」というようなやつである(たぶん)。

これを真似れば、「縮減的ユーモア」としての「速弾き」は、その速度の頂点において「器官なき言語(音楽)」に到達する、という図式を導くことができる。

より簡潔に言えば、「速弾きを練習しまくれば音楽がいくらでも自由に産み出せる」ということになる。本当だろうか……。

 

・「言語なき世界のナンセンス」→「静寂」
最後に、ナンセンスについて音楽的な解釈を加えておく。
「言語なき世界のナンセンス」とは、アイロニーの極限、超コード化による脱コード化(=無調)のさらにその先にあるナンセンスである。
これは、もはやあらゆる音を否定し去った後の状態だということができる。それは端的に言って、無音である。
ジョン・ケージ的な静寂よりもさらに強烈な、あらゆる音が吸収されてまったく反響を得られないような「静寂」、それがいわば「音楽なき世界のナンセンス」である。

 

・「意味飽和のナンセンス」→「騒音」
それに対して、ユーモア→コード変換→脱コード化 というルートを経てきたナンセンスもある。
これは「意味飽和のナンセンス」と呼ばれ、あらゆる言葉が互いに接続してしまったがゆえに、もはやなにもわからない、という状態である。
音楽的には、あらゆる音が同時に鳴っている状態、つまり極限的な「騒音」だといえる。
そこではもはや、何の音も聞き取れない。その意味では「音楽なき世界のナンセンス」、つまり完全な静寂と同じことである。

 

 

以上が、主に第二章に登場したキーワードを言い換えていった試みの結果である。
正直ごちゃごちゃしていてわかりにくいと思うが、まあ、こんなもんだろうと少しでも楽しんでいただけたら幸いだ。
そもそも解釈が違うとか、音楽について何も分かっとらん、等々の異論があったら、遠慮せずに投げつけていただきたいと思う。

 

冒頭にも書いたが、『勉強の哲学』は、クリアな論理で深い内容が語られている一冊である。
読んでいるうちに勇気づけられるような文体は、自己啓発本的な読み心地すらある。
それに加えて、いま試みたような、別の言葉での読み換え=言葉遊びのための「玩具」としても優秀なのである。
ソフトカバーで持ち運びやすいし、参考文献も豊富なので、どんな方にもおすすめ!。

 

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