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ロジェ・カイヨワ 『遊びと人間』 (講談社学術文庫)

著者のカイヨワ(1913-1978)はフランスうまれの人物である。

『遊びと人間』は、1958年に書かれた。以来、遊びについて考えるための大きな指針となっているようだ。


本書でカイヨワは、人間の遊びに明快な定義と区分を与えた。

いわく、遊びとは「自由で」「日常から隔離されて」「なにが起こるかわからなくて」なおかつ「何も生み出さない」。そしてそれは、「アゴン=競争」「アレア=偶然

ミミクリ=模倣」「イリンクス=眩暈」の、大きく4種類の区分を持つ。

……しかしそれは、すでにWeb上の色々なところで解説されている。「カイヨワ 遊び」とかのワードでググったら簡単に見つけることができる。だから今さら、ここに書く必要はないとおもわれる。

ということで、今回は、内容をダイレクトに掘り進めるのではなく、本書と、あるいはカイヨワと関係のある「人物」を軸にして書いてみようとおもう。その一人目は、カイヨワの直接の"師匠"とも呼ぶべき先駆的人物、ホイジンガである。

 

 

ホイジンガ──『ホモ・ルーデンス』という金字塔

ヨハン・ホイジンガ(1872-1945)は、オランダうまれ。大学で、歴史研究をメインにやっていた。


彼の有名な著作の一つが、ホモ・ルーデンスである。今やそれは、遊びを考える際には絶対に視界から外すことのできない、金字塔的な作品となっている。

ルーデンスLudensというのは「遊び」の意味。そしてホモHomoとは、ホモ・サピエンスのホモ、つまり「人間」を意味する。
だからホモ・ルーデンスとは、「遊ぶ人」ということになる。

これは、数いる人間の一部に、よく遊ぶタイプの人がいる、ということではない。
ホモ・サピエンスが種としての人類全体を指すように、ホモ・ルーデンスもまた、人類全体を指す呼び名である。つまり、「あらゆる人間は遊ぶ」ということだ。

ホイジンガの功績は、遊びに体系的な研究を施したことではない。彼は、それまでの価値の転倒を起こしたのだった。すなわち、「遊び」というマージナルな概念を、一気に文化の起源に据えることにまで成功したのだ。
実際に彼は言う、「文化は遊びの形式の中で発生し、はじめのうち、文化は遊ばれた、ということだ」と。

これを期に、どうやら遊びにも一考の余地がある、それどころかわれわれは遊びについてこそ考えるべきだ、という機運が、人文知の世界において高まったのは間違いないだろう。
そしてその影響をモロに受け、ついにはこれに取って代わるほどの新たな金字塔を打ち立ててしまったのがカイヨワなのだ。それが今回の『遊びと人間』である。

だからカイヨワの遊び論はホイジンガと共通する部分が多い。特に遊びの定義に関しては、ほとんど同じである。
先に挙げた4区分はたしかにカイヨワの大仕事だが、形式的な部分についてはホイジンガからの特別の発展はないようにも思われる。

だからむしろ、『遊びと人間』のおもしろさは、どちらかといえばエッセイ的なものとして存在している。
もはや文化の起源としてその地位を確立した「遊び」を巡って、まさに彼自身が遊んでいるかのように、様々な示唆が与えられるのだ。

本文中で例として挙げられている遊びはどれもピンとこないが、しかしだからこそ「語ること」の野暮ったさを感じることも少ない。
パラパラと適当にページをめくって、多種多様なインスピレーションを楽しむ、というのが、この本の読み方としてはオススメできる。

 

 

シラー──「遊戯衝動SpielTrieb」
二人目はシラーである。

カイヨワは本書の冒頭に収められた「日本語版への序文」のなかで、
「これはシラーの予言的直観とJ.ホイジンガのみごとな分析『ホモ・ルーデンス』のあとを受けつぐものである」と書いている。
カイヨワが、遊びの研究の"師匠"たるホイジンガと同列に、あるいはそれよりも先立つ人物として名を挙げているのがシラーなのである。
シラー(1759-1805)は、ドイツうまれの詩人である。ベートーベンの「第九」の歌詞を書いた人、と聞けばその偉大さがわかるだろう。

カイヨワはそのシラーの「予言的直観」のあとを受けついでいるのだという。予言的直観とは何だろうか。

それを一言で示す概念がある。「遊戯衝動Spieltrieb」がそれである。
遊戯衝動は、シラーの哲学的著作である『人間の美的教育についての書簡』(いわゆる『美的書簡』)で提示されたものだ。
そこで彼は、「人間は文字通り人間であるときだけ遊んでいるのであって、遊んでいるところでだけ真の人間なのだ」と書いた。
そして、感性的な物質衝動Sachtriebと理性的な形式衝動Formtriebとを統一するものとして遊戯衝動Spieltriebを置き、これを人間のもっとも根源的な衝動であるとした。
(以上の解説は、本書末尾の「訳者後記」(多田道太郎による)を参考にし、一部抜粋している。)

『美的書簡』は、シラーが詩人であるせいだろうか、「難解でよくわからない」という評判のようである。
とはいえ、彼が人間のあらゆる衝動に先立つものとして「遊戯衝動Spieltrieb」を考えていたのは間違いない。

Spielとは、ドイツ語で「遊び」を意味する。
一方、triebは、ここでは「衝動」と訳されるが、精神分析の用語法では「欲動」と訳すのがふつうである。

これは、本能Instinktと区別して考えられている。
本能が動物的な、生存のための単方向的な衝動であるのに対して、欲動は、あらゆる方向へめちゃくちゃに走っていくような、人間だけが持つふしぎな衝動なのだという。

シラーは、この欲動triebと、遊戯spielをセットにして考えた。
シラーの時代に精神分析は無かったが、今となってはSpieltriebとはむしろ、Spiel=Trieb、すなわち遊戯=欲動という意味だと捉えるのがよいかもしれない。

ところで、「遊び」という言葉には、単純に遊ぶこと以外にも、様々な含意がある。
たとえば、カイヨワ自身も「注目すべき、意味ぶかい使い方」として挙げているのは、「機械のかみ合わせのゆとり」という意味である。

日本語でも、「ハンドルに遊びをもたせる」とか、「早押しボタンの遊びを殺しておく」などという言い方をする。
これは外国語でも同じで、このゆとり、工学的な意味での遊びは、play(英語),jeux(フランス語),そしてspiel(ドイツ語)と呼ぶのである。

定義に照らし合わせて考えると、これは遊びの「何も生み出さない」という性質に着目した呼び方だと考えられる。
つまり、遊びがあるおかげで、「運動が機械に即座には伝わらない」ということである。

さて一方で、手元の辞書によれば、Triebというドイツ語にも注目すべき意味ぶかい使い方がある。
それは、「歯車」である。もしくは、機械的な伝導、駆動などと説明されている。

工学的には、遊びspielは「運動が伝わらない範囲」だった。そしてtriebは「運動が伝わった状態」ということができるだろう。
すると、Spieltriebという語の奇妙さが浮かび上がってくるではないか。

Trieb=欲動は、人間から外界へと「運動を伝える」。しかしSpielは逆に、「運動を伝えない」。
つまりSpieltriebは、「運動を伝えたくないという運動の伝わり」という、矛盾した、というより破れかぶれな概念になってしまう。

しかしそれが人間本来の姿なのかもしれない。
わたしたちは、外界へ影響を与えるのが怖い。だから遊ぶ。しかし遊ぶことによって、結局は影響を与えてしまう……。

どんどん『遊びと人間』の感想文という趣旨からズレてきたので、このへんで止めておくが、これはなかなかおもしろそうなテーマではないだろうか。
シラーはカントからの影響も強く受けており、カントもまたSpiel=遊戯概念を扱っている。そのへんも含め、またいずれ考えてみることにする。

 

 

遊びを考えることは、遊ばない領域、遊びが殺されたあとの「日常」を考えることでもある。
そこでは人間が互いに、不可避的に影響を与えあっている。
カイヨワは、そうした世界を""と呼び、""の世界と区別した。
さらに、""なるものについても考えた。彼によれば、聖と遊は対極にある。しかしその実、非俗的という意味で通底しているのも事実である。

 

読書をする人間は、行為だけを切り抜いてみれば、ほとんど何もしていないのと同じである。つまり、外界への影響が小さい。
だとすると、「本を読む」ということは、かなりすぐれた「遊び」と言えるのではないだろうか?

ということで、"俗"に疲れたときは、この本を読んで、"聖"と"遊"について「遊びながら」考えてみる、というのもよいんじゃないかとおもうのである。

 

本当はもっと関連人物がいるのだが、疲れたのでこのへんで一旦アップロードすることにする。
"気まぐれ"がこのブログのテーマのひとつだからである(今決めた)。続きはまたいずれ書くかもしれない。

 

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