コンドルをまちながら

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H.ベルクソン/S.フロイト『笑い/不気味なもの』 付:ジリボン『不気味な笑い』(平凡社ライブラリー)

3つの、時代も作者も異なる論考が一冊に収められた本である。
ベルクソン『笑い』フロイト『不気味なもの』、そしてジリボン『不気味な笑い』
前2者は、もはや古典となっており。すでにいくつかの邦訳も出ている。
ということで本書の眼目はやはり、ジリボンという日本では無名と思しきフランス人の書いた『不気味な笑い』にあるだろう。

 

『不気味な笑い』は、タイトルからも想像はつくが、『笑い』と『不気味なもの』を合体したような論考である。
著者であるジリボンはその中で、ベルクソンフロイトの、つまりは笑いと不気味なものとの共通点と相違点について研究している。

 

共通点とはなんだろうか。 ひとことでいえば、ベルクソンフロイトも、結局は同じものについて語っている、ということである。
笑いと不気味なものという、一見相反するかのように思われるテーマにもかかわらず、両者があつかう対象は同じなのだ、とジリボンは言うのだ。

 

共通するはずのこの対象にふれたときの反応は、しかし、ベルクソンフロイトで異なっている。
ベルクソンは笑い、フロイトは不気味だと感じたのである。これがジリボンの語る両者の相違点である。

 

ジリボンは断言する。ベルクソンフロイトは、実は同じものをあつかっていたのだと。
しかしまた彼は問う。では、その反応が、両者の間でまるで真逆だったのはなぜだろうか

『不気味な笑い』は、この断言問いとに貫かれた、短いながら(実際すぐ読めてしまう)明快な論考なのである。

 

 

さて、「同じもの」とは何か。それを特定するために、ジリボンはまず、ベイトソンから「」という概念を借りてくる。
「枠」とは、簡単に言えば、われわれがものごとを理解するために用いているカテゴリーのようなものだ。
ジリボンは以下のような例を挙げている。

たとえばわたしは、日曜日にサイクリングに励む人を目にして、いつも驚いたものである。
ギラギラ照りつける真夏の太陽の熱気のなか、急坂を汗まみれになって喘ぎながら登っているが、なぜあんなことをしているのだろう。
(中略)
彼らの苦痛は、そこにおいて、休日の気晴らしないし夏季休暇活動として枠化されている。
強制活動という枠のなかでなら耐えがたい苦痛であるものも、そこでは価値が転倒されて平気で耐えられている。(p.317)

要するに、実際には同じ苦痛(暑い中自転車をこぐという馬鹿げた運動)を味わっていたとしても、自分で勝手に「これは気晴らしなんだ」と言い聞かせさえすれば、過酷な労働もむしろ楽しいレジャーになってしまうということである。
この、「気晴らし」というものこそが1つの「枠」であり、「これは気晴らしなんだ」というのが、枠化である。われわれは日常的にいろいろなものを枠化している(枠化しなければ耐えられない)。
SMプレイ的なものも、枠化によって苦痛が快楽へと転じる典型的な例だろう。赤の他人の暴力には耐えられないが、異性(もしくは同性)のムチならば快感なのである(だから枠化とは、マゾヒズムにも通じているということだろう)。

 

さて、ジリボンはなぜ「枠」という概念を必要としたのか。それは、「枠の外」を語るためである。
ベルクソンフロイトが互いに見ていた「同じもの」とは、まさにこの「枠の外」だったのである。

いささか抽象的な言い方だが、ジリボンはこれに関して

枠のないこの領域が、極めつきの不気味なもの[umheimlich]の領域である。(p.324)

と述べている。この時点で、フロイトが「枠の外部」を扱っていたということが明らかになる。


では、ベルクソンはどうか。ジリボンはまた、次のように語る。

それでは、こうした不気味さと滑稽さとは、どこがどう違うのだろうか。その本質的な違いは次のようなものである。
滑稽なシーンには「健全」な枠がつねに参照軸として維持されている。(p.327)

つまり、ベルクソンの対象(「滑稽なもの」)は、フロイトの「不気味なもの」に枠をかぶせたものであるというのだ。
枠のおかげで、不気味さはたちまち滑稽さに転じて、われわれは安心してそれを笑うことができる(先ほど例で挙げたSMも同じである)

これが、ジリボンの見出した、ベルクソンフロイトの相違点なのである。

 

とはいえ、この発見が完全にジリボンひとりの手柄というわけではない。
彼も文中で示しているように、フロイトベルクソンも、滑稽さと不気味さの類似性には感づいていた。

たとえばベルクソン

おかしさは、まったく平静な精神の表面に落ちてくるという条件の下でのみ、笑いを生みだしうると思われる。
……おかしさがその効果をすっかり発揮するには、瞬間的な心臓麻痺のようなものを必要とする。おかしさは純粋理知に呼びかけるのである。(p.15-16)

などと述べるときに想定されているのは、まさに「枠」と「枠の外部」の関係性だろう。
おかしさや笑いは、枠をへだててこちら側にいるときにしか見つけ出すことができないのである。

 

また、これまでふれてこなかったが、フロイト『不気味なもの』の最大の眼目はじつは、

抑圧されたものの回帰

という精神分析的なその定義にある。
「不気味なもの」をドイツ語ではumheimlichというが、これはum(否定)+heim(家)+lich(形容詞)、つまり「家じゃないもの」という意味の言葉である。
そこからフロイトは、「かつでは馴染みのあったもの(家のもの)が抑圧され(家の外に出て)、しかしまたそれが帰ってくる(回帰)」という不気味さの定義を施したのである。

これは、ベルクソンがおかしさについて与えた

おかしさとは、生きているものに貼りついた機械的なものである

という有名な定義と明らかに呼応する。
機械的な印象は、まさに"判で押したように"同じことをくりかえす場合などに見出される。これは抑圧とその回帰のプロセスに似ている。
ただフロイトは、「健全な枠」を用意していなかった、あるいは枠が破壊された状態を想像していたために、それを「不気味だ」と感じたのである。それがベルクソンとの大きな違いである。
(たとえば、ある人が同じボケを何度もかましているのを「天丼やないか!」と(心の中で)ツッコむ(=枠化する)と笑えるが、それが度を越して繰り返されたら次第に枠が外れ、「不気味な人」だと感じられるはずである。)


以上から、「同じもの」そしてそれに対する反応の違いの原因が明らかになった。

 

ベルクソンフロイトも、「枠の外部」にある「不気味なもの」(ジリボンはまた、これをラカンの「現実界」という概念によっても説明している)を見ていた。
ただし、ベルクソンは健全な「枠」のある状態を想定しており、逆にフロイトは、枠の外れた、あるいは枠に穴の空いた状態について考えていたのだった。
これがジリボンの大まかな主張である。

 

もちろん、本書はすべてこうした簡単な図式に回収しきれるわけではない。むしろそれ以外のユニークな部分こそが、われわれに様々な示唆を与えてくれるにちがいない。
実際に訳者の原章二氏も、本書の「最大の目的は『笑い』の新訳を提供することにある」と述べているが、『笑い』のみならず3つの論文いずれとも構造的な理解にとらわれずに読むことができるし、読んだほうがよいだろう。

 

とはいえ、ジリボンの分析、そして「枠」や「回帰」「反復」「現実界」といったキーワードによって見えてくるフロイトベルクソンの共通性、という読みもまた、非常に知的好奇心をくすぐるものであった。

 

批評家の東浩紀氏は最近出版された『ゲンロン0』において、フロイトのこの「不気味なもの」について1つの章を割いてまで語っている。

そこで彼は、現代の情報社会における主体は、サイバースペースという空想的なフロンティアの中を分身として自由に飛び回るのではなく、むしろこの現実において「不気味なもの」に取り憑かれながら生きる主体として理解されるべきだ、と述べている。

だから本書は、非常に現代的な問題とも同時に関連付けながら読み進めることもできると思われる。

 

また、「枠」や「枠の外部」から受ける印象の違いに関してジリボンは、カフカサルトルカミュといった文学者の名前を挙げているし、
ベルクソンの『笑い』は、その喜劇観の多くをモリエール(『人間ぎらい』などで有名)に負っている。
またフロイトは、不気味なものが創作物として表現されている例としてホフマンの『砂男』を用いたりもしているので、文学批評というか、ブックガイド的に読むこともできる。

 

まあともかく、古典的名著とその簡にして要を得た分析、というこの3点セットは、読んで、また書棚に置いておいて損のないものである。訳もわかりやすいので、どんな人にもオススメできる一冊である。

 

 

笑い/不気味なもの: 付:ジリボン「不気味な笑い」 (平凡社ライブラリー)

笑い/不気味なもの: 付:ジリボン「不気味な笑い」 (平凡社ライブラリー)