コンドルをまちながら

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九鬼周造『「いき」の構造』 岩波文庫

昔から「いき」に対しては、「古い言葉だ」という印象を持ってきた。死語とは言わないまでも、半ば伝統めいた表現だと感じていた。当たり前だが、今でもそうである。
だから、「いきだね」と言われても、あるいは「いき」な芸術に触れても、「まあそんなもんか」、というくらいの感情しか起こってこないというのが正直なところである。
それよりはよっぽど、「カッコいい」とか「ウケる」とか「エロい」という現代風の言葉のほうがしっくりくるに決まっている。

 

さて、そんな「いき」について、真っ向から勝負を仕掛けた書物がある。九鬼周造の『「いき」の構造』である。
テレビとかでも取り上げられることもあるし、けっこう有名な本なので、名前くらいは聞いたことがある、という人も多いのではないか。

 

九鬼周造は東京生まれだが、ドイツでしばらく哲学の勉強をしていた人物である。
そんな九鬼が、「「いき」とは東洋文化の、否、大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つである」などと言っている。
表現は堅苦しいが、要するに、「「いき」は日本独自の感覚であって、外国に輸出するのは難しい」ということである。
これは、フランス語のespritやドイツ語のgeist(いずれも「精神」という訳語を持つが、それがすべてではない)と同じ事情であるが、これは「いき」だけが特別というよりも、翻訳一般に関わる根本的な問題だと言える。
「犬」とか「ウザい」とか「ホームラン」という日本語だって、完璧に外国語に翻訳することはできないだろう。

 

九鬼は、「いきの理解に際して、……唯名論の方向に解決する異端者たる覚悟を要する」と述べている。
唯名論nominalism」とは、ものの「名前」というのが単なる呼び分けのためのラベルではなく、「名前そのもの」として存在している、とする立場のことである。逆の立場は「実在論realism」などと呼ばれる。
木村拓哉」と「キムタク」は同じだ、と考えるのは実在論者だが、いや、名前が違うのだから別ものだ(たとえば「木村拓哉は個人だがキムタクはアイドルだ」)などと考えるのは唯名論者である。

 

つまり九鬼は、「いき」を「いきという名前そのもの」として扱うべきだと宣言しているのだ。
「いき」の本質がどこかに存在していると考えるのではなく、「いき」という言葉の使われ方やその歴史といった「いきが生きている場面」に目を向けようというのだ。
その思想は、本書の論理の歩め方にそのまま対応している。
九鬼は、いったい何が「いき」なのか? という実例から考えはじめ、その後にそれらに共通する性質を抽出していく。
タイトルは「いき」の"構造"とあるが、この"構造"というのは、生き生きとした「いき」の現場を収めた一枚のスナップショットであるといえる。

 

ではそのスナップショットには何が映っているのだろうか。九鬼は「いき」の一応の定義として、以下の3点を挙げている。

1:媚態
2:意気地
3:諦め

である。
これを乱暴に、イメージ喚起的にまとめてしまえば、「交わりそうで交わらない2直線」ということができる。

 

媚態とは、交わりたいというエロティックな欲望である。しかし、いざ交わってしまえば、媚態はたちまち消滅する。はじめから消えてしまう運命なのだ。それが消えないように手助けをする(邪魔をする?)のが、意気地と諦めである。
意気地とは江戸っ子的なつよがり、「武士は食わねど高楊枝」の精神である。「交わってたまるか、てやんでい!」とでもいうような、ある種のスノビズムである。
諦めは、仏教的な悟りの精神である。「どうせ交わることはできない」のだ、という諦念、「わからないということがわかっている」という逆説的な知恵である。

 

だからこの3つを合わせた「いき」は、「交わりそうで交わらない2直線」なのだ。

 

九鬼はその後、「いき」以外の様々な存在様態(たとえば上品-下品、甘味-渋味など)についても考察を加え、実際的な芸術の分析にまで至っている。曰く、横縞よりは縦縞が「いき」で、「いき」な色とは灰色や青色だ……、などなど。
とはいえ、本書の構造的な理解としては上記の「交わりそうで交わらない2直線」という点に尽きると思う。そのイメージさえ手に入れば、とりあえず『「いき」の構造を読んだ』ということになるだろう。

 

……という説明がすでに全くもって「いき」ではない。
「これさえわかれば『「いき」の構造』はクリアー!」というようなカタログ網羅的な読み方、2直線をいち早く交わらせたいという欲望の発露は、「いき」とはむしろ真逆の態度によっているといえる。


真逆の態度とはなにか。それは「野暮」である。
九鬼周造の『「いき」の構造』ってさ、あの言葉はこういう意味で、結局その概要は……」などというのは、全くもって野暮なのだ。

以前の記事で千葉雅也氏の『勉強の哲学』を紹介したが、そこで千葉氏は、このような「野暮さ」を現代風に「キモい」と言い直している。
2直線を交わらせようと拘泥し、饒舌に意味を語りつくそうとするその態度こそが「キモい」のだ、と(ただし千葉氏はその態度を、いわば"必要悪"として肯定している)。

 

さて冒頭で、「いきは古い言葉だ」と書いた。しかし、その対義語である「野暮」、さらにその言い換えである「キモい」ということになれば、もはや古くはない。
だから九鬼周造のこの書物は、むしろ「いき」の裏返し、いうなれば「野暮の構造」のように読めば、現代的な問題にそのまま通じるのではないか、と思うのである。

 

九鬼は「野暮」についてどう言っているか。
意気-野暮は異性的特殊性の公共圏における価値判断に基づいた対自性の区別である」そうだ。
対自的に言って「有価値」なのが「意気」で、「反価値」なのが「野暮」だという。

「対自的」というのは、まあ、「自分にとって」というくらいの意味だと思われる。自分にとってプラスになるのは「意気」だが、自分にとってマイナスなのは「野暮」なのだ。


ここで注意すべきは、「野暮」があくまでも「反価値」であって「無価値」ではないということだ。ゼロではなくマイナスということである。
九鬼も「「いき」を選ぶか野暮を選ぶかは、趣味の相違である」といっている通り、「野暮」にも逆説的な価値があるのだ(これは、千葉氏が「キモさ」を肯定的に評価しているのと通じているだろう)。

 

そもそも『「いき」の構造』は、90年くらい昔に書かれた古い書物である。
九鬼は「いき」の根底に「異性的特殊性」という公共圏(パブリック)を見出したが、現代の日本は当時から急速に多様化し、九鬼の考えていた「異性的特殊性」はより複雑化している。異性を「他者」と言い直し、その他者論の行き詰まりっぷりを考えてみれば、一目瞭然である。


そんな社会で「いき」はいまだに生きているのか、2直線が交わらないようにキープするだけの「意気地」や「諦め」は果たして残っているのか、疑問符を付さずにはおけない。


それよりはむしろ、「野暮」つまり「キモさ」の逆説的な価値のほうが現代的に有意味のようにも思う。
遺産と化しつつある「いき」を追い求めるのではなく、「あの人野暮ねぇ」「なんかキモい」というような場面においても、九鬼周造の威光を借りることによって、「でも「野暮」にもいいとこはあるんじゃない?」と、キモさを承認してしまうのである。そっちのほうが、楽しいに決まっているのだ。

 

 

九鬼の思考のエッセンスはたしかに「いき」に凝集されているが、その残りかすとしての「野暮」を嗜むのもまた乙である。豆腐ではなくおからを、ブランデーではなくグラッパを。そんな懐の広さがこの本の、ひいては哲学全体の魅力でもあろう。

 

まとまりのない内容になった気がするが、いかんせん酔いに任せてつらつらと書いたので、まあこの辺でよしとしておく。

 

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)

「いき」の構造 他二篇 (岩波文庫)