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無意識に踏み込むということ

 日本選手のメダルラッシュで大注目の平昌オリンピックもいよいよ閉会が近づき、その視線は今度、パラリンピックへ向かおうとしている。

 視線の主は、一般視聴者だったり、スポーツ関係者だったり、アスリートの家族や友人だったりするわけだが、中には当然、メディアもふくまれている。メディアのまなざしは、視聴者のそれを主導し、大勢を方向づける力を備えているため、何をどのように報道すべきか、という姿勢の如何が問われやすい。

 

 さて、そんな中で気になるのが、カーリング女子日本代表についてである。

 

 

 LS北見という北海道のカーリングチームが、まず国内の選手権を制し、そのまま持ち上がる形でオリンピックに出場している。カーリングは、ストーンの滑る短いあいだに、コースはどうとか、擦るのか擦らないのかとかいった素早い判断をくだす必要があり、そのためには阿吽の呼吸で通じ合うコミュニケーションが必要となる。だから、代表のためにわざわざチームを組み換えるようなことはせず、普段からやっているチームそのままで出ているのだ。

 

 それが見事に奏功したのか、カーリングチームは3位決定戦でイギリスに勝ち、銅メダルを獲得した。メダル獲得は、日本カーリング史上初となる偉業である。(おめでとうございます!!)

 

 テレビ中継を見ていると、「ヤップ」とか「ウォー」とか、それだけでは意味がわからない専用の言葉が頻繁に飛び交っている。意志の伝達をスムーズに行うためには、それなりに短く、記号化した言葉が必要となるからである。これは、見ていてなかなかおもしろい。

 

 そして、テレビを始めとしたメディアは、こぞってそのおもしろさに目をつけた。

 その最も顕著な例こそが、微妙に流行りつつある「そだねー」という言葉である。言葉にフォーカスするだけでは飽き足らず、テレビ各局や、JOCの公式Twitterなども、彼女たちを「そだねーJAPAN」などと呼び、囃し立てている。語感のかわいらしさからか、ネット上でも流行語の感を帯びつつ広まっている。

 

 別に、ある言葉に着目すること自体はいい。いいのだが、それがあまりに無反省に濫用されているいまの状況に、ちょっと不気味な気配を感じてしまったのだ。

 

 なぜ不気味なのか。

 

 「そだねー」というのは、作戦を一つに決めるときに、「その方向性に異議なし」というコンセンサスをとるための合図である。チームの意向をまとめることは必要不可欠であり、その意味で「そだねー」は、「ヤップ」や「ウォー」とおなじく、たんなる会話のための言葉ではない、記号化された戦術的サインとして使われている。

 

 そうしたサインは、おそらく、ほとんど無意識のうちに表示され、無意識のうちに回収される。ここでいう無意識とは、その言葉が、特定の目的のため(擦らせるとか、同意を示すとか)にのみ使われていて、その範疇を出ることが一切ない、というような意味だ。そこでは言葉は、"たんなる音"としか認識されず、すべてが具体的な行為の連動へとつながっていくのである。

 

 そうした無意識が、なめらかにつながっているからこそ、今回のような精度の高いプレーが生み出されたはずである。そんなところで、「そだねーJAPAN」のような取り上げ方を、しかもマスコミ主導で大体的にやる、というのは、いわば彼女たちの”無意識に踏み込んでいる”ということになる。ひとたび意識に上らされた「たんなる音」としての「そだねー」は、しだいに「言葉そのもの」として形づくられ、意味や文脈をともなって、無意識のつながりから掃き出される。それは、視聴者にも、というか視聴者にこそいえる話であって、実際、最初はあまり気にしていなかった「そだねー」が、試合を重ねるにつれてどんどん気になりだした、という人は多いはずだ(私もそう)。

 そしてそれが、あんまり問題視されていないようにみえる。無意識への踏み込みが、無意識に行われてしまっているのだ。この二重にねじれた状況が、不気味さの正体である。

 

 とはいえ、そうした「無意識への踏み込み」を、まったく拒否してしまってもよいのだろうか。ある程度は、許容すべきなのか。

 

 他の例で考えてみよう。

 「ものまね」をするときは、すべてではないにせよ、多くの場合で人の無意識へ踏み込んでいる。歌手の細かな身振りや、野球選手の決まり決まった動作。そうした動きは、まさに無意識の産物である。そして、それをものまねするということは、動作を意識へと上らせる、無意識を顕在化する、ということにほかならない。その意味では、「そだねー」を取り上げるのは、ものまねと似ている。

 

 何年か前に、「市原隼人花香よしあきにブチギレた」というゴシップが報じられたことがあった。彼のみならず、ものまねを快く思っていない人は多いだろう。実際、われわれも、何気ない動作をことさらに取り上げられ、誇張を交えてものまねされたら、あまりいい気分はしないはずである。

 

 無論、「ものまね王座決定戦」的な番組になれば、真似される本人たちも承知しているのだろうし、あれほどクオリティの高いものまねであれば、許容範囲ということにはなろう。そしてなによりも、おもしろい。しかしそれを、そのおもしろさを、そのままスポーツの現場に持ち込んでよいのか、というのは、問い直す必要がある。

 

 結局は、「そだねーJAPAN」的な取り上げ方、そしてそれを無反省に受け入れ、喜々として言いふらしてまわるというのは、「無意識への踏み込み」という意味で、結構罪つくりなことではないのか、と言いたかったのだ。まあ、これをそのまま拡大して、「カーリングチームに失礼だ、彼女たちのプレイに影響が出るかもしれない」などというのは、日本を代表するプロチームに対して失礼千万というものではある。だからそこまでは言わないにせよ、ちょっと考え直したほうがいいんじゃないの、と思ってこの記事を書いた。

 誰かのなにかを取り沙汰するときに、それが「ものまね的茶化し」になっていないかどうか、というのは、つねに吟味すべきである。パラリンピックは、どうなるだろうか。

 

(参考)

 多田道太郎は、『しぐさの日本文化』のなかで、「最も「日本的」な番組の一つ」として、「そっくりショウ」というものまね番組を挙げています。彼いわく、「ものまね」という文化、ひいては(創造の対極としての)”模倣”といううごきは、日本人にとってポジティブな価値として受け入れられているのだそうです。

 この本は、人間の細かな「しぐさ」に着目して、そこから引き出される心理や文化をあれこれ考えているという、読みやすくも刺激的な一冊なので、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。(最後にかろうじて書評ブログ感を出してみる)

 

しぐさの日本文化 (講談社学術文庫)

しぐさの日本文化 (講談社学術文庫)