形状記憶実存
たまには自分語り的なブログでも書いておこう。
人間、素直が一番だという。
ところが、私は、なかなかひねくれている。こういう格言めいたのをみるにつけ、「そんなわけあるかい!」と斜に構えてしまう。なかなか頑固だと思う。結構昔からそうなので、もうがちがちにねじれた状態で、矯正するのがムズカシイ。
思えば、思想や哲学に傾倒していったのも、そんなひねくれ度合いを肯定してくれる論理を、そのなかに見出していたからかもしれない。自らの弱さを、屁理屈で武装するために。
精神分析における防衛機制(自分を守るシステム)の一つに、「知性化」というのがあって、要するに知識や言語活動によって自分のまともな感情を覆い隠そうとすることをいうのだが、まさにそんな感じ。知性によってなにかを隠し続けている。
まあ、誰しも天邪鬼的な部分はあるわけで、それを伏せるなり、切り分けるなり、小出しにするなりして、なんとなく素直に生きているのだろう。けれども、そういう(普通の?)人たちにもなりたくないので、天邪鬼のまま、どうにかひねくれ一辺倒でやっていける道はないかなー、と模索していたのが、最近の私である。
しかし、疲れてきてしまった。飽きたとも言える。いや、疲れとか飽きなんていう人間の有限性に託つけてしまうあたり、すでにひねくれのつま先が見えている。もっと素直に、正直に、ストレートに生きたい、といったほうがたぶん正しい。
ということで、素直に生きよう。しかし、そのためにはどうすべきか。
「もっとひねくれる」という戦略もありうる。一周回って逆に素直、という感じである。しかしそれは、なんだか性格が悪いし、闇を抱えすぎて内臓が汚れていくような気分の悪さがある。ひねりすぎて疲弊し、こわれてしまうかもしれない。
とはいえ、まっすぐに矯正するのもコワイ。そしてムズカシイ。ついでにモッタイナイ。ひねくれていたお陰で出会った思想や哲学を、いろいろな視点や知的道具の数々を、あっさり捨ててしまうのは忍びない。
……。
こうなるともう、賭けるしかない。何に賭けるのか?
またいつでも、ひねくれ状態に戻ってこれるということに、である。素直になった後でも、思いつきひとつで、もしくは何かが作用したときに、くるっと簡単にねじまがる。天邪鬼の部屋に、また帰ってくる。自らが「形状記憶実存」であることを信じる。
今日たまたま、世阿弥の『風姿花伝』を読んでいた。能にまつわる、一子相伝の虎の巻である。そこに、「初心忘るべからず」とある。能の「初心」とは、24,5歳のころ、稽古が実を結んでようやく世間に評価されるようになってきた時期のことをいう。そのころは、若くて勢いがあって、もの珍しがられる。そこに咲くのが「初心の花」だそうだ。
しかしこの花、歳月が経つと萎れてしまう。だから、そのときのために、種にして持っておくのだ。またいつでも、初心の花を咲かせられるように、ストックしておく。それが「初心忘るべからず」という戒めにつながる。
人間も同じで、ひねくれの記憶を、思想を、感性を、忘れさえしなければよいのだ。過去の自分をあっさり見捨てることはせず、がんばって持っておく。そのうえで素直に生きる。なんせ、「素直が一番」なのだから。
という感じで、結局、なんとなくひねくれたような結論になった気がするけども、まあよしとする。
ともかく、素直に生きよう。みんなも素直に!!!