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再生と<演奏> -陶酔についての試論-

以下の文章は、私が1年くらい前に書いた小論を加筆・修正なしにそのまま掲載するものである。拙い点は多いが、あえてそのまま発表することにする。おもにカイヨワの『遊びと人間』、とくに"模倣"と"眩暈"を中心に据えた、パフォーマンス論(芸術論?)として読めるだろう。なお、各章の小見出しも当時のままに掲載している。

 

 

導入

 ロジェ・カイヨワRoger Caillois(1913~1978)は、1958年、シラーやホイジンガからの直接的な知的影響のもとに、のちに代表作となる『遊びと人間』を著した。彼はそこで、社会や文化の基底をなす人間的な行為としての”遊び”をとりあげ、遊びに体系的な分類を与えるとともに、遊びが、文明にたいして果たしてどのような痕跡を残してきたのか、ということを明らかにするようつとめた。

 カイヨワの研究に先行するかたちで書かれた『ホモ・ルーデンス』において、著者であるホイジンガは、「文化は遊びの形式のなかで発生し、はじめのうち、文化は遊ばれた、ということだ」と述べ、同じく文明にたいする遊びの根源性・基底性を指摘している。カイヨワは、遊びのそのような捉えかた、また遊びの定義そのものについてはホイジンガと多くを共有しつつも、遊びに対してさらに積極的に、以下の四つの区分を与えている。

 

(1)アゴンAgon:競争

(2)アレアAlea:偶然

(3)ミミクリMimicry:模倣

(4)イリンクスIlinx:眩暈

 

 『遊びと人間』においては、この四区分を出発点とし、具体的な遊びの諸相にたいしての形態分析も交えつつ、社会や文化についての論究が進められている。

 

ミミクリとイリンクスの優位性

 カイヨワは遊びについて、その「安定性はいちじるし」く、「国家や制度は消滅しても、遊びは同じ規則を持ち、時には同じ道具さえ持ちながら続いてゆく」としている。そしてそれは、「つまらないものに特有の恒常性を、遊びが帯びているから」である。

 これは、近代的な国家や制度が確立するよりも遥か以前から、当然のように人間は遊んでおり、そしてそれによって原初的な文化や文明がかたちづくられていったという歴史的な出来事とその持続を示唆している。じっさいに彼は、オーストラリアやアメリカ、そしてアフリカなどにおける原始的社会──彼が”混沌の社会 societes a tohubohu”とよんでいるような──について、「仮面と憑依、すなわちミミクリとイリンクスとが支配している社会」であるとかんがえている。また、これと対置して、アレアとアゴン、すなわち「能力と家柄」とが支配する近代的・官僚的な秩序社会を、”計算の社会 socieies a comptabilite”とよび区別している。

  ミミクリとイリンクスが支配する原始的社会から、アゴンとアレアが支配する近代的社会への発展、というこの分析が、必ずしも歴史的物語(history)の流れに沿った直線的なものではなく、また、バタイユらの影響のもとに長く神秘主義へと傾倒していたカイヨワが、本書のいたるとこで「パントマイムと恍惚」や「仮面と失神」など蠱惑的な語彙によって換言している「ミミクリとイリンクス」にたいして、遊びの対極としてみられるはずの”聖なるもの”とその実、背面ではつながりあっているかのような脱俗的な魅力をおぼえ、必要以上にその優位性を高く評価していたという可能性を考慮したとしても、われわれがここでふたたび、遊びの原初的な形態としてのミミクリとイリンクスをとりあげて、現代にのこる模倣と眩暈、ものまねと陶酔──さらに卑俗な言い換えを施すならば、”日本的”な同調とうぬぼれ──の重要性を考察することは、さほどの無理を生じることではないようにおもわれる。

 

ミミクリ-模倣という快楽-

 『遊びと人間』の邦訳者の一人であり、カイヨワをはじめとしたフランス哲学・文学の代表的な研究者であった多田道太郎(1924~2007)は、彼の著作である『しぐさの日本文化』のなかで、日本における「ものまね」の文化について、軽妙ながら核心をついた、次のような分析を与えている。

 

 おたがいよく似ていることは、集団にとっての安心である。そこに人間と人間とのつながりがある。……混沌の社会では、自分が自分であることが放棄される。自分は、たとえばお人形ごっこやお芝居において「他者」となり、スキー遊びやマリファナにおいて、自分というものの崩壊する感覚をたのしむ。模擬と「めまい」の原理がはたらくのである。ところで、自分の崩壊が楽しめるというのは、その底に大きな安心があるからである。私たちの社会では、似た者どうし、強靭につながっている或る一体性が暗黙のうちに前提されている。だから、自分が自分でなくなっても、底の方にある一体性によって支えられているだろうという安心感がある。むしろ、自分が自分でなくなり、他者の「ふり」をするとき、この大きな安心感が湧出するといえる。 (『しぐさの日本文化』,2014年,講談社学術文庫,p13-14)

 

 「他者のふりをする」ことが、大きな安心感をかたちづくる。

 これは、われわれは、かならずしも全員が言語ゲームの共通のルールを共有しているわけではなく、共同体の成員の顔貌に、ふいに「他者」としての表情ならざる表情があらわれるおそれを抱えてはいるが、しかしだからこそ、他者の模倣をくりかえし、その形骸を積み重ねることで、共同体の底に、或る大きな安心感を”捏造”するのだ、ということを意味している。

 つまり「模倣」という遊びは、自己の身体をいったん溶かし、想像された他者的なふるまいによって他者の輪郭へと自己を流し込むことによって、共同体のなかに本物の「他者」があらわれる危険性をさきどりしてつぶしておくという営みであり、模倣の快楽とは、共同体の底への垂直な”つながり”による安心感に支えられているのだ、ということができる。

 また、共同体からはなれた領域であっても、放っておくとあらゆるものに水平に接続し、野放図に拡張しかねない「身体」を、他者の模倣を通じて一度、ゲシュタルトのなかに囲い込むことで、自らの状態を際限のない流出からセーブし、あくまでも意識下にとどめておきたいという、自己同一性の保護という目的を達するための逆説的な装置として、他者の模倣という遊びが機能しているとかんがえることもできるだろう。

 

イリンクスの誘惑

 カイヨワに立ち返ろう。彼は「イリンクス」の原初的な例として、原始社会における「成人儀礼initiation」や、「シャーマン」の存在を挙げている。シャーマンは、「たいてい精神病的気質によって選ばれ」、彼の癲癇発作や失神、カタレプシーといった超自然的なふるまいは、集団全体が加担するところの「聖なる発作」にまで昇華され、やがてその呪いが解ける、あるいは祓われるといった「治癒」にまで至る。こうした一連の流れは原始社会にとっての「祭り」となり、社会秩序の維持に重要な役割を担っていたとされる。

 シャーマンや、そうでなくとも他者における痙攣や失神といった「超自然的」なふるまいが、近代科学が発達する以前の段階の社会にたいしてどこか神秘的な印象をあたえ、「聖なるもの」にまでその権威を高めていったというのは、不思議なことではない。のみならず、広く科学的知識がいきわたったとされる現代においても、ふいにおこる非日常的な発作にたいして、言い知れぬ感動、崇高な魅力を感じとってしまうというのは、十分にありえることだろう。

 そうした、超自然的なふるまいは、われわれ人間の身体的拡張の可能性を示唆し、それまでに想像もつかなかったような、あたらしい「かたち」の存在を暗示してくれる。つまり、それが非主体的な、偶然の作用による発作であれ、逆に主体的な選択の先にある陶酔(麻薬、アルコール等)であれ、ともかくも「眩暈」という遊びが、「模倣」というべつの遊びにとって基底的であり、「眩暈」によって用意された何らかの「かたち」が、模倣の可能性を大いに広げている、ということを示している。

 整理すれば、「模倣」とは他者的なふるまいにより共同体へのつながりを確認する遊びであったが、その「他者的なふるまい」への想像力の源泉としては、「眩暈」による忘我、脱自我的な挙動が不可欠である、ということになるだろう。逆にいえば、「眩暈」による超自然的なふるまい、またはそのようなふるまいを演じられる人物は、それだけで共同体にとっての「他者」となりうる資格をそなえており、その発生段階においては神秘的な魅惑を周囲に与えはするが、終局的には共同体内の人間による「模倣」を経て”つぶされ”なければならない脅威なのである、ということになる。

 

再生

 ここで、話題を急転させ、音楽の方へとはこぶ。

 われわれは、いまや日常的に、いつでも・どこでも様々の音楽を聴くことができるが、そのためには、レコードと蓄音機の発明を待たなければならなかった。波として伝わった音楽が、蓄音機の針をうごかし、物理的な溝としてレコードに録音される。われわれは、その溝をなぞることで、かつては一度きりであると思われていた演奏を、何度でも再生することができるようになった。

 ところで、レコードやCDを「再生」するという日本語には、ふつう、”play”という英語があてられる。実際はその逆で、”play”が先にあり、その後「再生」と訳されたのだとおもうが、ともかくも、それまでは楽器を演奏すること、そしてなによりも「遊ぶこと」を意味していただけの”play”に、「録音された音楽の再生」という意味があたえられたことには、重要な示唆が含まれているようにおもわれる。

 演奏や遊びは、つねに一度きりのものであり、二回以上くりかえされることのない営みである。それに対して、「再生」は、時間的なズレをのぞけば、ほぼ同じ環境で、同じ音源をくりかえし聴くこと、あるいはその可能性を示すものである。

 われわれがこのようにかんがえるのは、演奏とはつねに「人の手によるもの」であり、一方で音源の再生は、物理信号の機械的な反復にすぎないという認識にもとづいている。これを等しく”play”と呼ぶのであれば、それは、音楽にかんして、「人の手で奏でられる」ことの重要性を放棄しているかのようにおもわれるのだ。

 ここで、「演奏」という日本語にもうひとつ、”perform”という英語があてられることに着目しよう。”perform”とはすなわち”per-form”であり、それは本来「完全にかたちづくる」ということを意味していた。ここで、「かたち」という観念から、「眩暈」という超自然的なふるまいと、それに連なる「模倣」という共同体の遊びをおもいだすことは、自然な流れであるようにかんがえられる。

 そこで、「演奏perform」がすぐれて「眩暈」的な遊戯playであり、それをあらためて<演奏>とよび、CDの再生にたいしては”re-play”=「遊びなおし」という言葉をあてはめかんがえる、ということにしたい。つまり、「<演奏>-再生」という音楽的な関係性に、「眩暈-模倣」という遊戯の関係性を対応させてかんがえる、ということである。

 

感動的な再生

 CDの再生がすべて、オリジナルの単なるくりかえしであり、その模倣の完全性ゆえにかえって眩暈としての他者性を失った、味気ない反復の営みであるかといえば、必ずしもそうではない。

 ここで、レコードが<演奏>的に再生されている一例として、映画「ショーシャンクの空に」のワンシーンをひくことにする。

 映画の中盤、主人公であるアンディが、ショーシャンク刑務所の放送室をのっとり、所内放送として勝手に、モーツァルトの「フィガロの結婚」を流す。これは、後に彼の口から説明されるように、「音楽と希望は誰にも奪えない」というメッセージのこめられた、夢のある暴挙である。

 じつはこのシーンはスティーブン・キングの原作にはなく、ダラボン監督がたまたまオペラにはまっていたために急きょ、設けられたシーンであるということだが、重要なのは、所内に流れる「フィガロの結婚」が、レコードの再生であるにもかかわらず、たしかに囚人たちの心を打った、ということである。

 再生は本来、人に感動をあたえない。あるいは、かりに感動をおぼえたとしても、それを「ふたたびくり返すことができる」という、その無限の再現可能性に気づいてしまった時点で、感動は消失してしまう。これに対して、<演奏>が感動的であるのは、それがたったの一度しかあらわれない、再生不可能な遊戯=performanceであるからである。

 ところが、ショーシャンク刑務所内でのあの「フィガロの結婚」は、たしかにレコードの再生であったにもかかわらず、囚人に、そして映画をみるわれわれにも感動をあたえる。それは、あの状況全体が、アンディの信念によって強引につくられたものであり、それ以降二度と「再生不可能」であると、容易に把握されるからである。

 もし、アンディの暴挙が刑務官から咎められることがなく、翌日にまた同じレコードを再生したのだとしたら、そのときすでに感動はなく、また、一度目の再生=<演奏>にたいしても、あれは単なる錯覚だったのだと、その認識が上書きされてしまうだろう。

 それ以外にも、たとえば何か大きなことをなしとげた、あるいは大きな失敗をしてしまった日の夜に、自室でひとり、ほの明るい間接照明のなか、バーボンのグラスでもかたむけながら、おきにいりのジャズの名盤をかける、などという場面を想像すれば、その状況全体もまた「再生不可能」(あるいは非常に困難)であるという限りにおいて、同じくレコードの<演奏>であるとみなすことができる。

 

<永劫回帰>との関係

 しかしドゥルーズは、ニーチェの<永劫回帰>にかんして、次のような解釈を与えている。

 

 私がなにを欲するにせよ(たとえば私の怠惰、貪欲、臆病、あるいは私の美徳でもよいし、悪徳でもよい)、私はそれが永遠に回帰することもまた欲するような仕方で、それを欲するのでなければならない。「生半可な意志」たちの世界はふるい落とされる。「一度だけ」という条件でわれわれが欲するようなものは、すべてふるい落とされるのである。たとえ臆病、怠惰であっても、それらが自らの永遠の回帰を欲するとするならば、怠惰や臆病は別のものになるだろう。それらは能動的になり、そして肯定の<力>となるであろう。(『ニーチェ』,1998年,ちくま学芸文庫,湯浅博雄 訳,p66-67)

 

 「「一度だけ」という条件でわれわれが欲するようなもの」とは、いまわれわれが<演奏>とよんだようなものである。<永劫回帰>の、つまり「肯定の最高の形式」(この人を見よ)としての循環的なサイクルのイデーにおいては、こうした<演奏>的な行為は、しりぞけられなければならない。すべての<演奏>が、じつは再び回帰する可能性をはらんでいること、あらゆる共同体のなかで、模倣という遊びをつうじていずれは再生され得るということを、われわれは認めなければならない。

 これはつまり、一見すると感動的で、人々の心を打ち震わせずにはいられない<演奏>のなかに、じつはすでに「多数性」と「生成」を「断罪し、否定しようと努める」形式としての「ニヒリズム」が用意されている、ということを示唆している。

 

初歩的な芸術論まで

 すべては模倣であり、あるいは模倣され得る。われわれはこうした模倣の絶対性のなかに、アリストテレスが「ミメーシス」とよんだような芸術の根本形式を見いだすことができるかもしれない。すなわち、音楽の、あるいはあらゆる芸術の芸術性は、じつは<演奏>にはなく、その次の段階、再生=replayとしての「模倣」にのみ存するのだ、と。

 これはつまりは、芸術における「観客」の絶対性を支持している。<演奏>が、単なる自閉的な遊戯である眩暈から、芸術の段階にまで抜け出るためには、それを、脱陶酔的な共同体、いわば「シラフ」の人々がながめ、模倣するのでなければならない。

 たとえば絵画についても、われわれはつねに、白紙のキャンバスの上をうごく、作者の視線、筆、ランダムなインクの飛沫について遡行しながら想像し、いずれはそれが、われわれの模倣をつうじて再生され得る、その可能性のなかにこそ、芸術の芸術性を見透かしているのかもしれない。

 とはいえ、<演奏>という自らが提出した思いつき程度の比喩にひきずられ、大げさな「芸術論」にまでその航路をひらくというのは、やがては難破を導くことになるだろう。ここでは、あくまでも「眩暈と模倣」、「陶酔とシラフ」という相補的な二層の関係を提示するにとどめ、結論へむかうことにする。

 

結言

 われわれは、いたるところで模倣をしている。他者の身ぶりをまね、口ぶりをまね、しぐさをまねる。また、社会問題にたいして、神妙な面持ちでかんがえているふりをしたり、電車の中で難解な古典を紐解いているふりをしたり、とびこんできたニュースにたいして、おおげさに驚いてみせるふりをしている。

 これらはすべて、すでに(眩暈的な遊戯によって)あたえられた「かたち」への同一化であり、共同体への暗黙の接続である。われわれの日常におけるふるまいのほとんどは、純粋な陶酔として遊ばれた=<演奏>された「かたち」の、遊びなおし=replay=再生にすぎない。

 やっかいなのは、模倣と陶酔の誤った結合である。つまり、模倣することがそのまま、陶酔になってしまうということである。あたかも、CDを再生することで、まるで自分が<演奏>しているかのように自らに酔いしれるようであり、彼らはその実、共同体の底に流れる「かたち」の形骸をいたずらに膨らませ、やがてそれが転倒し、社会的・共同体的な抑圧となるというあの忌々しき事件の”再生”に加担する共犯者となっていることに、きづいていない。

 坂口安吾(1906~1955)は、初期のエッセイである「ピエロ伝導者」や「FARCEに就て」のなかで、ファルスやナンセンス文学における「笑いと涙」の不用意な融和を指弾し、また、それらが本来もつ「肯定の力」について次のように述べている。

 

 日本のナンセンス文学は、涙を飛躍しなければならない。「莫迦莫迦しさ」を歌い初めてもいい時期だ。勇敢に屋根へ這い登れ! 竹竿を振り廻し給え。観衆の涙に媚び給うな。彼等から、それは芸術でない、ファースであると嘲笑されることを欣快とし給え。しかしひねくれた道化者になり給うな。寄席芸人の卑屈さを学び給うな。わずかな衒学をふりかざして、「笑う君達を省みよ」と言い給うな。見給え。竹竿を振り廻す莫迦が、「汝等を見よ!」と叫んだとすれば、おかしいではないか。それは君自信をあさましくするだけである。すべからく「大人」になろうとする心を忘れ給え。(「ピエロ伝道者」,『堕落論・日本文化私観』所収,2008年,岩波文庫,p10-11)

 

 ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言ってやんでいを肯定し、と言ったようなもんだよを肯定し──つまり全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して待ちつづけるだけのことである。(「FARCEに就て」,前掲同書,p24)

 

 彼がここで理想的な道化師として顕揚しているのは、「観衆の涙に媚び」ず、「嘲笑されることを欣快とする」者である。そしてまた、人間を全的に肯定することに「白熱し、一人熱狂して待ちつづける」者である。

 このとき、「観衆」とは、「竹竿を振り廻す莫迦」たる道化師を模倣というかたちで共同体から排斥しようと企てる人々である。しかし安吾は、そうした観衆を否定するのではなく、あくまでも、「道化師と観衆の融和」のみに注視している。それはつまり、眩暈と模倣、<演奏>と再生との結合であり、いうなれば、「笑われる者と笑う者」の結合である。

 「笑われる者」は、共同体のなかでつねに「他者」としてたちあらわれ、彼の<演奏>performanceは、あるときは感動をあたえるが、またあるときは、嘲笑の的となる。しかし彼らの陶酔、彼らの<演奏>こそが実は、社会の基底をなす重要な遊び、共同体の秩序を底で支える「かたち」を産みだす営みなのであり、それなしでは、文化も文明もありえないのであった。

 しかし、彼らの<演奏>を、その超自然性のゆえに必要以上に神聖視してしまうことは、ニヒリズム的に、<同一なもの>への回帰をまねく。そしてそれは、共同体の崩壊につながるおそれがある。

 また、先に述べたように、彼らを模倣することそれ自体が快楽となるような、<演奏>と再生との誤った結合も、避けねばならない。そうした結合はいわば「底からの力」となって、共同体を危機へといざなう。

 つまりわれわれは、「笑うか笑われるか」、つねにその二者択一の前にさらされているのである。

 笑うのであれば、徹底して笑わなければならない。笑うことに酔い、笑われる者への敬意を欠いた笑い──つまり、「涙に裏打ちされた笑い」──を振りまくのではなく、ただひたすらに、無意味な笑いを笑わなければならない。

 また、笑われる者も、徹底して笑われるべきである。自らの陶酔を恥じることなく、とにかく酔い、酔うことにも酔い、己のパフォーマンスに徹底すべきである。

 われわれにいま、必要なのは、模倣をやめることではない。それは芸術にとって不可欠であり、なによりも、たのしいことだからだ。

 そうではなく、模倣と眩暈の、再生と<演奏>の誤った結合を断ち、再生は再生として味わいながら、一方で、<演奏>の権威をただしく復活させることである。それはとりもなおさず、「パフォーマンス」の価値をみとめ、そしてわれわれもいたるところで、パフォーマーとしてふるまうということである。

 <演奏>=陶酔=performするということは、模倣=replayとはちがい、われわれ全員が他者の「ふりをする」のではなく、じっさいに他者に「なる」ということである。日常のいたるところに陶酔境をちりばめ、自己を崩壊させ、その崩壊のありさまを、そのままさらけだすこと。もちろんそれは、共同体との垂直なつながりが断たれた地点でおこなわれる必要がある。

 「安心して酔う」=再生の遊びは、ごく私的な領域にとどめおいて、むしろ公的な場面においてこそわれわれは、「危険な酔い」=<演奏>という遊びを味わうべきなのである。