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モチベーションの「誤配」 ~「モチベーション格差社会」をかんがえる~

 何気に意識高い系なので、落合陽一とかホリエモンに結構共感したりする。昨日もYouTubeで、1年くらい前の『スマホで朝生』を見ていたところ、お両人が出てなかなか刺激的なことを喋っていた。

 特に脳裏に強く刻まれた言葉が、落合陽一の発した「モチベーション格差」というものである。

 簡単に言えば、AIやらロボットやらが台頭してくるこれからの社会を生きる人間に必要とされるのは、内在的な「モチベーション(やる気)」なのであって、それがある人は「勝ち組」として社会的成功を収める一方、やる気のない人はどんどんスポイルされていく、というお話である。

 単純労働や作業的な色合いの強い仕事はロボットが担うのだから、そこからあぶり出された手持ち無沙汰な人間は、モチベーションを原動力にして新しいなにかを生み出すしかない、というビジョンである。

 

 これ、まったくもってそのとおりだと思うし、現にそのような「格差」の構造はいたるところに見え隠れしているようだ。しきりに「」や「好きなこと」の発見とそのアピールが顕揚されるのも、それらがこのモチベーション格差社会を乗り切る(勝ち組になる)ための道標になると考えられているからだろう。

 

 

 とはいえ、やる気が出ない

 

 ホリエモンはよく「アイドルと付き合う」とかを例に上げて、「本当は誰にでもやりたいことがある(けど、できないと思っている)」とか言っているけども、これは案外そうでもない。本当にやりたいことがない、モチベーションが上がらない(上げたくもない)人は結構いる。

 

 しかし、そのような「モチベゼロ」人間の中にも、落合陽一やホリエモンと同じビジョンを抱いている人たちもいる。つまり、自分にはモチベーションがないにも関わらず、モチベーション格差社会が到来する、という未来だけは見えてしまっているのだ。「やりたいことが見つからない」ことを嘆いたり、焦ったりしているのは、大体そのような人たちだと思う(私も含めて!)。

 

 じゃあ、モチベーション上げましょう、やる気出しましょうと言って、簡単に上がるのかといえば、そうではない。無理なもんは無理である。

 

 けれども、無理無理言っても仕方はないし、「モチベーション格差」はなんとかしてやり過ごさなければならないわけだから、「モチベゼロ」でもどうにか生きていけるための作戦を考えたいと思うのだ。

 

 

 そこで、当座のところ思いついているのが、表題にもあるとおり「モチベーションの誤配」だ。

 「誤配」は、思想家の東浩紀が使っている概念で、「郵便的」とも称される彼の哲学の中核をなすモチーフである。厳密に知りたい方は『存在論的、郵便的』とか『ゲンロン0』を参照したらいいとおもうので、ここでは簡潔に。

 まず文字通りにみれば、「誤って配られる」ことであるから、もともとは手紙や葉書が、意図したのとは違う場所や人に届いてしまうことを指す言葉である。東はこれを、

存在しえないものは端的に存在しないが、現実世界のさまざまな失敗の効果で存在しているように見えるし、またそのかぎりで存在するかのような効果を及ぼすという、現実的な観察を指す言葉(『ゲンロン0』、p156)

のひとつとして用いている。誤配は失敗なのだが、しかし、その失敗のおかげで期待されていたのとは異なる新しい何かが生まれうる、という、ポジティブで生成的な概念である。

 ポイントは、「無いものは無い!」とも、「無いからこそ在る!」とも断言しない、「ないんだけど、あるようにもみえるし、実際それで色々な影響が出ている」という中間性である。このゆらぎのなかに、誤配概念のバイタルな魅力がある。

 

 さて、そうなると「モチベーションの誤配」とは、「モチベーションがないんだけど、あるような効果を及ぼす」という現象のことになり、それはまさに「モチベゼロ」人間が到達すべき理想の戦略形態の一つのように思えてくるのだ。なんとかして、モチベーションがあるように見せかける「誤配」を起こしさえすれば、それでよいのである。

 

 ところで、一般に「モチベーションがある人」はどのように見分けられるのか。まず考えられるのは、いわゆる「ハキハキした人」である。笑顔をたたえ、姿勢もよく、大きな声で理想を語る。そういう人と話して「やる気がないな」との印象を抱く相手はまずいないだろう。そうしたわかりやすい挙措は、やる気を見せるための身体的なアプローチであり、一つの方法として確立されている。ビジネスマナー研修なんかでも多分やらされる。

 しかし、ハナからやる気がない人が、無理やりそんなことをやったらどうなるか? 笑顔はぎこちなく、姿勢はこわばり、声は上ずるはずだ。「モチベゼロ」気質の人間は、そもそもこのような身体的アプローチに「向いていない」。

 

 ではどうするか。

 そこで提案したいのが、もう一つのアプローチ、つまり「言語的アプローチ」である。言語は身体への依存度が少ないため、モチベゼロ人間でも頑張ればうまく操れる可能性は高い。しかも、言葉には意味とその解釈が無限につきまとうわけだから、その分「誤配の確率」も上がるだろう。この仕組みを利用すればよいのである。

 

 身体的アプローチは、顔や声帯をしきりに動かし、そこに独特のエネルギー、つまり「質量」を感じさせる方法である。対する言語的アプローチは、言語によってその質量を生み出せれば良いという考えになる。

 

 要するに、たくさん喋ればよいのだ。

 

 口数で圧倒すること。これがやる気をアピールする、モチベーションを誤配するための言語的アプローチである。それに内容(質)が伴えばなお良い。

 

 なんとも肩透かしな結論かもしれないが、じゃあたとえば「姿勢悪い、声小さい、表情暗い」のに「口数も少ない」ということになれば、そもそもやる気を汲み取る余地がない、ということになってしまう。だからとにかく、空気も読まずに大量の言葉を射出すればよいのである。それで失敗しても、誤配がうまい具合に作用するかもしれないのだ。(実際、落合陽一的なビジョンでは、「失敗してもAIがカバーしてくれるから死なない」的な世界観になっているらしい。

 実際にやる気はなくとも、とにかく口先を動かす。それが「モチベーション格差社会」を「モチベゼロ」で生き抜くための一つの戦術である。故・西部邁が、「「ごんべん」に「」うで「誑かす(たぶらかす)」と読む。言葉には人を狂わせる力がある」みたいなことを述べていたが、まあそんな感じだ。

 

 喋らずとも、「書く」のでもよい。そもそもインターネット上のコミュニケーションは、身体性が薄いから、言語的アプローチに向いている。文字やアバターが身体性を補ってくれるのである。ネットとリアルのコミュニケーションしやすさの違いは、その身体性の濃淡に由来すると考えられる。肉体を無理に改造するような身体的アプローチが苦手な人は、身体に依存しにくいネット空間にいろいろなことをたくさん書くと良い。

 

 

 もちろん、言葉を操る(鍛える)モチベーションすらもない、という別問題も生じてくるのだが、これはとりあえず置いておく。

 

 

 

 

 まとめ。

 

・「モチベーション格差社会」が到来する(している)

・でも「モチベゼロ」はどうしようもない。

・いっぱい喋って、「モチベーションがあるように見せかける」(誤配)。

 

以上。

 (さらにまとめれば、実はこの記事は「サボってたブログ頑張って書きます宣言」なのだ。)

 

 

 最後に、エンディングテーマとしてMr.Childrenの『HANABI』でも流しておく。

「考え過ぎで言葉に詰まる自分の不器用さが嫌い でも妙に器用に立ち振る舞う自分はそれ以上に嫌い」という歌詞に、今回述べたような逡巡が詰まっている!


Mr.Children「HANABI」 Tour2015 REFLECTION Live